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片付けは、過去を捨てることではなく選び直すこと|お盆の日に出会ったセミの話

9月4日
読了時間: 6分

ここ最近、少しずつ家の片付けをしています。

戸棚や本棚を開けると、長いあいだ忘れていたものが次々と出てきます。


昔使っていたもの。

受講した講座の資料。

何年も前の手帳。


その頃は大切だったけれど、今となっては、どうして持っていたのかさえ分からないもの。

ひとつずつ手に取りながら、

「これは今の私にも必要?」

「これはもう手放していい?」

と、自分に問いかけながらの作業。


そんな片付けの途中で、少し前にひとつの風鈴が出てきました。

黒い鐘の上に、小さなセミの飾りがついた風鈴です。


セミの飾りがついた風鈴

紐の部分が切れていたのと、もう風鈴として使うことはなさそうだったので、最初はそのまま手放そうと思いました。


でも、よく見ると、そのセミのつぶらな瞳がなんとも健気で。


「セミまで一緒に捨てなくてもいいか」

と思い、風鈴を分解して、セミだけを取り外して残すことにしました。


今思えば、それが一度目の「セミのサルベージ」でした。


そして、その数日後。

今度は本物のセミに出会うことになります。


その日は、お盆のある日でした。

朝から片付けをしていた私は、思いがけないことを知りました。


若い頃、私が音楽活動を頑張っていた時代に、何年か交流のあった方が、今年の冬に亡くなっていたのです。


昔のヤフー掲示板で知り合って(時代!いまならSNSですね)、数年の間、イベントを一緒にやったりしていた人。

けれど、お互いの人生のフェーズが変わる中で、だんだんと疎遠になっていきました。


記憶の中のその人は、もちろん昔の姿のままです。

その人がもうこの世界にはいない。


最初は、その事実が現実としてなかなか馴染まないような、不思議な感覚でした。


でも、お兄さんが引き継いだ彼のSNSを見に行くと、納骨の報告とともに、その方の笑顔の遺影と、お墓の写真がありました。


その写真を見たとき、初めて実感として、

「ああ、もうこの方はこちらの世界にはいないんだな」

という思いが、悲しみとともに湧き上がり、その時にはじめて涙が出ました。


しかも、ちょうどお盆のタイミング。

長いあいだ思い出すことのなかった人の訃報を、よりによってお盆の時期に知ったことが、とても心に残りました。


そして、そのあと外へ出たときのことです。

マンションの近くで、一匹のセミがひっくり返っていました。


死んでいるのかな?

そう思って見ると、まだ脚が動いています。


私はちょうど紺色の日傘を持っていたので、そっとセミの近くへ差し出してみました。

すると、セミは日傘につかまりました。


そのまま少しすると、突然、元気に「ミーン!」とひと声鳴いて、自分の羽で飛んでいきました。


残念ながら最初に止まったのは近くのマンションだったので、

「できれば木がたくさんあるところへ行ってね」と思いながら、その姿を見送りました。


そのときは気づいていなかったのですが、あとになってハッとしました。


そういえば、ほんの数日前にも私はセミを助けていた。

風鈴についていた、小さなセミ。


あのときは、もう役目を終えたものの中から、なぜかセミだけを残したくなって救い出した。

そして今度は、ひっくり返っていた本物のセミを、日傘の上に救い上げた。


不思議な重なりです。


気になってセミについて調べてみると、セミは「再生」や「変容」の象徴として捉えられることがあると知りました。


長い時間を土の中で過ごし、地上へ出て、まったく違う姿になって生きるセミ。


なるほど、確かに「再生」という言葉が似合います。


お盆の時期に昔の知人の訃報を知り、そのあとに出会ったセミ。

「あの人がお知らせに来てくれたのかな」

一瞬、そんなことも思いました。


ただ、その日の私には、この出来事がとても印象深いものとして残りました。


そしてもうひとつ、日傘につかまったセミを思い返していて、気づいたことがあります。


私は、あのセミを飛ばせてあげたわけではありません。


ひっくり返って、自分ではどうにもならなくなっていたときに、日傘という小さな足場を差し出しただけ。


そこにつかまったあと、

鳴いたのも、

飛んだのも、

セミ自身でした。



人間にも、そんな時期があるのかもしれません。


どうしても起き上がれないときには、誰かに少しだけ手を貸してもらったり、何かにつかまらせてもらったりしてもいいと思うのです。


一時期、「自己責任」という言葉がずいぶん使われました。


もちろん、自分の人生を自分で引き受けることは大切です。


でも、

助けてもらうことと、

自分の人生を自分で生きることは、

きっと矛盾しない。


少しだけ足場を借りて、休んで。

力が戻ってきたら、また自分の羽で飛んでいけばいい。


そして、そう考えてみると、ここ最近している片付けも、どこか「再生」に似ていることに気づきました。


片付けを始めた頃は、家の中にある不要なものを減らしていく作業だと思っていました。


でも、実際は少し違いました。

昔の手帳を開いて、今も大切だと思える言葉を写真に撮ったり、ページを切り抜いたりする。


昔学んだことの中から、

「これは今の仕事にも使えそう」

というものを、もう一度拾い上げる。


長いあいだ眠っていたものを、

「これはまだ使えるかもしれない」

と、もう一度生かしてみる。


そして、もう役目を終えたものには「ありがとう」と言って手放す。


そういえば、少し前に易経の48番「水風井」という卦について考えていた時、こんな言葉に出会いました。


「井戸を修復している。咎なし。」


水の波紋

井戸を直している間は、まだそこから水を汲むことはできません。


でも、その時間は何も生み出していないわけではない。

これからまた、きれいな水を汲めるようにするために、必要な時間なのです。


今の私がしている片付けも、少しそれに似ているような気がしました。


外から見れば、ただ物を整理しているだけ。

大きく進んでいるようにも見えないかもしれません。


でも、これまでのものを見直して、必要なものを拾い直して、これから使える状態に整えている。


今は、自分の「井戸」を直している途中なのかもしれません。


過去を全部捨てて、新しい自分になるのではなく、

残すもの。

手放すもの。

そして、もう一度生かすもの。


今の自分が、それを選び直している。


そういえば、あの風鈴のセミもそうでした。


風鈴そのものは役目を終えた。

でも、小さなセミまで一緒に手放す必要はなかった。

必要なものだけを、そこから拾い上げればよかったのです。


片付けは、過去を捨てることではなく、

これからの自分と一緒に生きていくものを、選び直すことなのかもしれません。


お盆は、亡くなった人を思う時間でもあります。


でも同時に、今ここで生きている自分が、これまで歩いてきた時間を振り返る機会でもあるのかもしれません。


過去に出会った人たち。

昔の自分。

大切だったもの。

もう必要ではなくなったもの。

そして、一度忘れていたけれど、もう一度拾い上げたいもの。


それらすべてが、今の自分につながっています。


あの日傘につかまったセミは、木のたくさんある場所へ飛んでいけたかな?


ひっくり返ったまま命を終えるのではなく、もう一度飛んでいったあのセミが、残された時間をちゃんと生ききってくれていたらいいなと思います。


そして私もまた、

これまでの人生の中から大切なものをもう一度サルベージして、

必要なときには誰かの助けを受け入れながら、

また自分の足で、次のステージへ向かっていけたらと思います。


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